コンサートと座禅

モーニング娘。のコンサートは私にとって禅なのだという仮説。

推しをどのように好きかや、コンサートをどのように体験しているかについてヲタと4時間近く話しました。

私はこのブログでもあんまり譜久村さんのことは語っていないなあと思っています。
譜久村さんのどこが好きか説明出来ない。どんな人か全然わからない。でも自分にとってものすごく特別だということはわかる。

認知とか応援とかあなたのファンがここにいると示したいとかいろいろ話が出たんだけど、どうもしっくりこない。
アンジュコンで一緒にオイオイする全き楽しさや、会場のみんなの良きものを見つめる横顔を、娘コンの時は楽しめないのは何故か。終わったあとに全体が見れなかった後悔に襲われるのは何故か。

あと、先日のひなフェス記事を読んで確認したけど、自分が全く歌を聞いていないことに気がついた。歌割とかほとんど気にしてもいない。それは自分の推しがわりとメインを張っているというのもあるけど、すごく視覚優位で聴覚が下位だからということのよう。なんなら耳栓してるしね。

それはさておき普段の生活ではいつも何かしら考えていて、見ているものと知っているものを比べて評価したりして、ただ目の前の事に集中することが出来ていない。

でも娘コンで譜久村さんを見つめている時は、過去を参照するでも未来を思うでもなく、ただ今を見ている。ただ見ることに集中している。したいと思っている。出来なくて苦しい。

これはどうも何か近いものを知っている気がする、とすごく考えたら、座禅の只管打坐に限りなく近いのではないかと。

曹洞宗の公式ページから座禅について引用。

******ここから引用******

曹洞宗坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。

******ここまで******

これを置き換えてみると、
コンサートでの在り方は「只管打見」、ただひたすらに見るということです。何か他に目的(認知されたい、メンバーの成長を確かめたいetc)があってそれを達成する手段として見るのではありません。推しを見る姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望(推しにはこんな人であって欲しい、触りたい等)や、物事の表面(衣装が可愛くない、歌割が少なくて辛い等)に振りまわされてしまいがちですが、コンサートにおいては様々な思惑や欲(踊りたい、体調が悪そうで心配、グループ全体を見たい等)にとらわれないことが肝心です。

と、あまりにもピッタリで納得。
次の娘コンで検証してみたい。
ミスムンとカレーと声はチャンネル切り替わる気がするから、時空とかでどうなるか。

あとコンサート以外では、究極的には「付き合いたい」という気持ちもあって、このふたつがどう同居しているのか考えたい。
でも好きな人と付き合ってる時はその人を斜め後ろから見ているのがとても好きだった。見ることを許されていることが嬉しかった。

あとぽんぽんのミステリー解きたい。